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反徳川家康

織田信長が亡くなると、
旧武田領は、上杉、北条、徳川と、
三大勢力の領地争いの場となった。

そこに真田昌幸がおり、
昌幸は自領を守るため、
三大勢力と次々と結びついて、
ころころと主君を変えた。

昌幸が徳川家康の配下になっていたとき、
徳川家と北条家が講和を結んだ。
その条件に、
「上州沼田の明け渡し」があった。

ところが、
上州沼田というのは、
真田家の領地であり徳川家の領地ではない。
そして昌幸が家康から与えられた領地でもない。

昌幸はこれを断固拒否し、
徳川家を離れて、
一度裏切った上杉景勝を頼った。

これに怒った家康が、
真田攻めを行い、
上田城を攻めたものの、
昌幸の巧みな戦術に徳川軍は敗北する。

栃木の城+α

メルマガ「歴史情報」

最強のラバウル航空隊

ラバウル航空隊は、
太平洋戦争当時、
オーストラリアの北にある、
現在のパプアニューギニアにあるラバウル、
そこに本部が置かれた海軍の航空隊である。

ラバウル航空隊は、
エース達を数々輩出し、
海軍最強の航空隊であった。

連日のようにアメリカ軍が大量に押し寄せ、
過酷な戦いを強いられた。
ラバウル航空隊の零戦の稼働実数は、
わずか30機ほどであったが、
アメリカ軍はラバウルの航空兵力1000機と見ていた。
そう思わせるくらい、
最強の航空部隊であったのである。

栃木の城+α

勝海舟と蘭語

勝海舟(麟太郎)が若いころ、
蘭語(オランダ語)に興味を持ち、
勉強を始めた。

その当時、
日本にあった日蘭辞書は、
「ヅーフ・ハルマ」一種類だけ。
しかも買うと60両もした。
現在の価格にすると360万円くらいである。
勝の家は貧乏だったため、
手に入れることができない。

そこで勝は、
この原本58巻を借り、
1年がかりで2部写した。
そのうちの1部を売って生活費にした。

栃木の城+α

西南戦争と会津藩士

戊辰戦争後、
会津藩は斗南藩へと移った。
斗南藩領は不毛の地ということで、
旧会津藩の人々は、
大変な生活を強いられた。

1877年に西南戦争が起こると、
旧会津藩士の多くが警察官として任官し、
西南戦争で薩摩藩側と戦うことになる。

これは一見するとおかしな構図である。
明治政府が会津藩を潰した。
その恨みのある明治政府に、
旧会津藩士が西南戦争で明治政府側に味方したからだ。

ところがこれは明治政府の策略でもあった。
旧会津藩士の人々は明治政府を恨んでいる。
その恨みを西南戦争によって、
薩摩藩側へと向けることに成功した。

栃木の城+α

長篠城籠城戦

1575年5月8日。
武田勝頼は15000の大軍で徳川方の長篠城を囲んだ。
対する長篠城の兵力は500。
しかし200挺もの鉄砲があった。
これは驚異的な火力と言えよう。
そして長篠城は落ちず、
5月21日に長篠の戦いを迎え、
武田軍は大敗北を喫する。
実に30倍もの敵を相手に守り抜いたその戦意は凄まじい。

栃木の城+α

はじめまして

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定期的に、
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