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大覚寺統と持明院統

第88代天皇、
後嵯峨天皇の譲位を受けて、
後深草天皇(89代)が誕生したが、
その後、
後嵯峨上皇により、
後深草天皇は弟の亀山天皇(90代)に譲位した。

後嵯峨上皇は、
亀山天皇の系統を正統の系統とし、
これによって、
後深草天皇と亀山天皇の間で対立が生じた。

そこで後嵯峨上皇崩御後、
鎌倉幕府は、
後深草天皇と亀山天皇の子孫を、
10年ごとに、
交互に即位させることを提案する。

ここで、
後深草天皇の系統を「持明院統」、
亀山天皇の系統を「大覚寺統」という。

91代目には、
亀山天皇の子である後宇多天皇がなり、
92代目には、
後深草天皇の子である伏見天皇がなった。

以後、
93代後伏見天皇(伏見天皇の子)、
94代後二条天皇(後宇多天皇の子)、
95代花園天皇(後伏見天皇の弟)
96代後醍醐天皇(後二条天皇の弟)、
という風に、
短期間の間に、
めまぐるしく変わった。

後醍醐天皇のときに南北に分かれ、
後醍醐天皇は南朝(大覚寺統)、
光厳天皇は北朝(持明院統)となった。

複雑だが、
南北朝の動乱前には、
大覚寺統と持明院統との争いがあったのである。


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3人の秀勝

豊臣秀吉関係で、
3人の秀勝が登場する。

1人目は、
秀吉の子という説がある秀勝。
秀吉が長浜城主のとき、
側室との間に生まれた子供で、
6歳で亡くなった。

2人目は、
織田信長の四男於次(おつぎ)。
秀勝と名付けて秀吉の養子とした。
丹波亀山城主となるが、
18歳で病没する。

3人目は、
秀吉の甥秀次の弟。
秀吉の養子秀勝の遺領を継ぎ、
秀吉の養子となった。
後に江と結婚し、
朝鮮出兵の際に24歳で病没。



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