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堂々の裏切り

豊臣政権五奉行の一人、
増田長盛の次男盛次は、
豊臣秀吉存命中の頃から、
徳川家康に仕えていた。

関ヶ原の戦いでは、
盛次と父長盛は西軍に属すも、
盛次は処分を免れて、
家康の子で尾張藩主の義直に仕えた。

大坂冬の陣では、
盛次は尾張徳川家の家来として従軍したが、
大坂夏の陣では、
大坂城へ入っている。

大坂冬の陣の模様を聞いていた盛次は、
徳川方が勝つと苦い顔をし、
豊臣方が勝つと喜んでいたという。

その盛次は、
大坂夏の陣が始まる前、
主君義直に、
「大坂城に入りたい」
と言い、
義直はこれを受け入れた。

盛次は長宗我部盛親の隊に属して藤堂高虎隊と戦い、
序盤は長宗我部隊の優勢に進むが、
形勢は逆転し、
長宗我部隊は大坂城へ撤退した。
その際、
殿を務めたのが盛次で、
藤堂家の家臣磯野行尚によって討ち取られた。

なお、
盛次が大坂城へ入ったことにより、
岩槻城主で高力清長のもとに預けられていた、
父長盛が責任を負い、
切腹を命じられている。

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大覚寺統と持明院統

第88代天皇、
後嵯峨天皇の譲位を受けて、
後深草天皇(89代)が誕生したが、
その後、
後嵯峨上皇により、
後深草天皇は弟の亀山天皇(90代)に譲位した。

後嵯峨上皇は、
亀山天皇の系統を正統の系統とし、
これによって、
後深草天皇と亀山天皇の間で対立が生じた。

そこで後嵯峨上皇崩御後、
鎌倉幕府は、
後深草天皇と亀山天皇の子孫を、
10年ごとに、
交互に即位させることを提案する。

ここで、
後深草天皇の系統を「持明院統」、
亀山天皇の系統を「大覚寺統」という。

91代目には、
亀山天皇の子である後宇多天皇がなり、
92代目には、
後深草天皇の子である伏見天皇がなった。

以後、
93代後伏見天皇(伏見天皇の子)、
94代後二条天皇(後宇多天皇の子)、
95代花園天皇(後伏見天皇の弟)
96代後醍醐天皇(後二条天皇の弟)、
という風に、
短期間の間に、
めまぐるしく変わった。

後醍醐天皇のときに南北に分かれ、
後醍醐天皇は南朝(大覚寺統)、
光厳天皇は北朝(持明院統)となった。

複雑だが、
南北朝の動乱前には、
大覚寺統と持明院統との争いがあったのである。


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3人の秀勝

豊臣秀吉関係で、
3人の秀勝が登場する。

1人目は、
秀吉の子という説がある秀勝。
秀吉が長浜城主のとき、
側室との間に生まれた子供で、
6歳で亡くなった。

2人目は、
織田信長の四男於次(おつぎ)。
秀勝と名付けて秀吉の養子とした。
丹波亀山城主となるが、
18歳で病没する。

3人目は、
秀吉の甥秀次の弟。
秀吉の養子秀勝の遺領を継ぎ、
秀吉の養子となった。
後に江と結婚し、
朝鮮出兵の際に24歳で病没。



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無血開城の舞台裏

鳥羽・伏見の戦いに勝利した、
薩摩と長州を中心とする新政府軍は、
徳川慶喜を討つべく、
江戸に向けて出発した。

3月15日に決せられた江戸城総攻撃、
勝海舟は攻撃が行われた際、
江戸を火の海としてしまおうと行動に移した。
また、
英国公使のパークスと面談し、
慶喜が切腹されそうになった場合、
慶喜を英国へ亡命させる準備も整えていた。

3月13日と14日、
勝と西郷隆盛が会談し、
江戸城の無血開城が決まったのは有名な話であるが、
実はこれには裏がある。

会談の前、
西郷は江戸攻撃によって負傷兵が出た場合、
病院に収容してほしいとパークスに頼みこんだが、
パークスは難色を示した。
「すでに恭順している慶喜を討つことは、
万国公法に反するものであり、
英国は仏国とともに、
新政府軍を攻撃する」
と言われてしまった。

このパークスの言葉は非常に重く、
江戸城総攻撃を中止させた大きな理由の1つであった。


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竹に雀

伊達家の家紋の1つに、
竹に雀紋がある。
伊達家といえば、
竹に雀紋というほど、
よく見られる家紋だ。

伊達家14代当主の稙宗は、
奥州守護に任じられて、
これをきっかけに、
積極的に近隣の家々と婚姻関係を結び、
伊達家の勢力を一気に拡大させた。

植宗はさらに、
三男の時宗丸を、
越後守護上杉定実の養子として送り込もうとした。
これに伴い、
時宗丸は定実から一字をもらって、
実元と名乗り、
上杉家の紋である竹に雀紋が与えられた。

ところが、
稙宗の子の晴宗が実元の養子に反対し、
父親と対立、
天文の乱が勃発した。

天文の乱の勃発により、
実元の養子の件はなくなり、
実元は伊達家に残ることになったが、
実元は竹に雀紋を用い、
宗家の伊達家もこれを用いることとなった。

ちなみに、
実元の子は、
伊達成実。


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